2017年8月11日金曜日

お盆

お盆が近づいて、死んだひとが近くに来ているのを感じる。正直、今まで、お盆を意識したことがなかったけれど、今年は違う。じわじわ滲みるように、死んだひとがこちらの世界へ戻ってこようとしているのを感じる。夢に出てくるとかではなく、なんというか、気配みたいなもの、思い出させる吸引力みたいなもの。「お墓に行かなくっちゃ」と私は思っている。「おい、たまには来いや」と言われている気がする。いや、そう思いたいだけかも知れず。それに伴って、死んだひとの思い出が度々ぐっと鮮やかに蘇り、「もう会えないんだ」という事実に、今さら胸が詰まる。去年の今頃、電話でエイミー・ワインハウスの話をしたひとは、その3ヶ月後、あっさり死んでしまった。「あの、死んじゃった娘だろ?」という声色も、いつか忘れてしまいそう。

書くまでもないが、連日、とんでもない暑さである。お休みの日は、3才児を連れて、どこへ行ったらいいのか、途方に暮れる。地表近くは温度が60度ほどにもなっているらしい。異常である。しかし、ひねもす家にいるわけにもいかない。夏休みの子を持つお母さんは大変だと思う。いまの時代、子どもをほっとくわけにはいかないのか。子どもは子どもで、夏休み、ほっとかれたいと思わないのか。自分がどうだったかは、もう思い出せない。しかしながら、なるほど、私が働いているデパートは、開店から子どもを連れた母親でいっぱい。言うことを聞いている子どもはいない。大抵が走り回っている。その血液はさらさらと体内を循環していることだろう。彼らの体が透けて見えるようである。おとなしくしている子は、大方、ゲーム機や電子機器を手にしている。母親たちは、きれいに着飾ってはいるが、目は死んでいる。プール、動物館や水族館、各種イベント、映画、日々あらゆるところに出かけ、時間とお金と体力を費やしているのだろう。もうネタがなくなって、デパートに連れてきてしまったが、落ち着いて買い物できるわけもなく、怒る気力もなく、走り回る子どもは見知らぬ他人の私が注意したりしている。命の危険さえなければ、もうどうでもいい、そんな感じだ。お母さんたち、着飾って外出するだけですごいと思う。「早く夏休み終われって思う」と、小学生のお子さんを持つお母さんは、みずみずしささえ感じる強い口調で私に言った。

夏休みがない我が家でさえ、保育園がない日曜祝日は、どう時間を潰すか気が重くなることが多くなってきた。水場のある公園まで徒歩30分。炎天下の中、歩いて行くのは苦しい。息子は息子なりに気を遣って、本当は抱っこしてもらいたいだろうに、頑張って歩こうとしてくれる(私の荷物が多い日も同様である)。すごいぞ、3才児。感動しつつも、つらい。猛暑。幼児を連れて時間を潰せる場所は、どうしたって少ない。

先日、とうとうネタがなくなって、息子と2人で映画を見に行った。『カーズ クロスロード』。予告編も含めて2時間。大丈夫なのか。初めての映画だった前回(『機関車トーマス』)は、その夜、結構うなされていた。今回、本人が「ぼくはもう、うなされない。ぜーったい見に行きたい!」と言うため、連れて行くことにした。携帯用子ども便座(画期的発明品!)やら着替えやらをリュックに入れ、水筒を斜めがけにし、朝8時30分発の電車に乗って、映画館へ出かけて行った。「外に出たくなったら出ればいいんじゃない?途中で帰ってもいいんじゃない?」と思っていたのだが、と息子は2時間ちゃんと一人で座って映画を見ていた。「抱っこしようか?」と言う私の誘いを拒否し続け(うっとうしそうだった)、ぎゅーっと集中して見ていた。ただ、情緒的なシーンはまだ退屈なようで「『カーズ』終わったら、ラーメン屋さん行くよねー!」と大声で言ったりはした。同じく拒否されて床に落ちた防水シート(万が一、おもらしした時に備え、座席に敷こうと持参)を握りしめながら、自分の子どもと2人で映画を見に来るということが、私の人生に起きたことが不思議でならなかった。左隣を見やると、大音量で鳴る音楽に、息子は、身を震わすようにしていた。全身で映画に反応している息子を嬉しく、そして少し遠く感じた。

「ねんりょうほきゅう!」。『カーズ』を見終わったと、飲み物を「燃料」と呼ぶ息子である。よく灼けた顔で、麦茶をゴックゴクと飲み干す。食欲がすさまじい。栄養という栄養を全て身に摂り入れ、夏の強い日差しを浴びて、息子はぐんぐん大きくなっている。道路沿いの、伸びすぎたひまわりみたい。生命力の塊の横で、私は夏バテ気味、胃腸を弱くしている。しわついた手のひらを息子の背に当てると、血液が循環する音がリーリーと聞こえてくるようである。君は、そんなに急いで、少年になってしまうのか。

今日は「山の日」である。雨が降りそうになければ、電車に乗って、墓参りでも行くかね。

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