2017年6月21日水曜日

たまる

15年くらい前、ある人がある本で彼のお気に入りについて書いていた。それを読んだ私の友人が「あれは、僕が彼に教えたんだ。こんなふうに書かれてしまうと、人が殺到してしまって、もうあの店に僕は行けなくなる。かなしい」と言っていた。

今は、誰もがそれぞれの「お気に入り」について、(躊躇せずに)発信できる。発信された「お気に入り」はロードローラーで均されたばかりの道のように、「一般化」する。愛着は生ぬるく潰されて、そのうちに忘れてしまう。私だって、あの映画が良かった、あの本が良かった、とキーボードを打ったりする。いいものを見聞きすると、誰かに伝えたくなる。文章にしてみたくなる。それが、いつからか、何かを見ながら、頭で言葉を探すようになった。そして、人生を変えるような感動や衝撃、お気に入りに出くわさなくなった。手に入るのは、ささやかで無害、内容も明確に思い出せないような「お気に入り」だけになった。


先日、私は展覧会と映画を見に出掛けて行った。

展覧会は、仕事を終えた後、夜に行った。その3日前、昼間に行った時には入場制限がかかっており、チケット売場までもたどり着けなかった。それがまるでうそのように、人がまばらな入口。ガラーンとした中に、警備員って、普段、こんなにいただろうか。「大人1枚」とチケットを買おうとしたら、売場の女性は、声を潜めて「Xという作品が不具合で展示中止になっています」と私に告げた。「絵で不具合って、どうされたんですか」すると、彼女は素早く周りを確認してから、さらに小声になり「昨日、お酒を持ち込まれた方がいて……瓶を割ってしまいまして……修復していますが、おそらく最終日にも間に合わないと思います」そして、世にも哀しそうに歪んだ笑顔で、申し訳ありません、と言った。

展覧会は撮影可能らしく、カメラや携帯電話で写真を撮っている人が多くいた。中には一眼レフで撮っている人もいる。撮ってどうするんだろう、あれ。ものすごい違和感を感じた。「展示を写真に撮る行為、またはその行為に対する違和感も含めた『アート』」という側面もあるのか。ーあの時に似てる。数年ぶりに踊りに行ったクラブで、踊りながら時々ピタッと止まる若者がたくさん。(DJに何の曲かを尋ねるのではなく)アプリで調べたり、Twitterに投稿しているらしかった。私がよく踊りに行っていた頃は、携帯電話で写真なんて撮れなかったし、持っている人も少なかった。インターネットは普及していなかった。踊っている間は、途中で止まったりせずに、何もかも手放して、踊った。

展覧会で酒がかかった絵は、展示されていた部屋で修復中であった。女性が、白い布のようなもので、トントンと叩いていた。誰も足を止めることなく、順路に従って、次の絵に移って行った。私は、その部屋の入口に立っている係の人に「すこし、見てもいいですか?」と聞いてみた。受付の女性と同じように、哀しそうな歪んだ笑顔で、申し訳ございません、と彼女は言って、絵の解説をしてくださった。絵の中の人々が、こちらをじっと見ていた。酒瓶が割れたその瞬間、この部屋はどんなふうにになったんだろう。大騒ぎだっただろう。その時も、この絵の中の人々は口を閉じたまま、それを見ていたんだな。と、思って見ていたら、酒がかかったこの絵のことを作者はどう思うだろうか、もしかしたら、その酒の跡(残っていたら)を利用して、新たに絵を加えるのではないか、という気もしてきた。絵に酒がかかったことはとんでもないことだとは思う。でも、酒がかかったこと(くらい)では、この絵の価値は絶対に下がらない、という気も(強く)した。

その展覧会の数日後、見に行った映画は、インターネットがない時代が舞台だった。登場人物のそれぞれに、私がいた。その中の一人は「悲しい時は踊るの」と言っていた。音楽や本は、人を介して伝えられていた。インターネットがない時代がひどく懐かしかった。

私は展覧会のことも映画についても書かなかった。書けなかった。書く気がしなかった。胸の中にしまって、しばらく持ち歩いた。梅雨に入り、関節に湿気がたまった。それでも、なにか、あらゆることが良い方向へ向かっているような、体の中でさらっとした風が吹いているような気分がした。リュックのサイドポケットに入れている朝刊が日に日に重く感じるようになった。休憩室で新聞を読むうち、胸の中の風はどす黒く重たくなるようだった。しかし、ゲイジュツは、凶暴なセイジがもたらす暗い気分に決して染まることなく、内で存在を濃く強くして、私を支えてくれるのであった。

日曜の夕方から、(またしても)声が出なくなった。風邪症状なし。かかりつけの耳鼻咽喉科に行く。「声帯が酷使されている、声帯にとっては過酷な状況」と、先生は朗らかに仰った。

声が出なくなると、言葉が内に溜まる。私はおしゃべりだから、いつもは体から出ていく言葉が、内側に溜まっていく。両鎖骨の下あたりに溜まる感じがする。本当なら、話さずにいたい。その方が声帯もいいのである。でも、幼児を持つ身としては、それは難しい。息だけで、息子とあれこれおしゃべりする。息子は私に気を遣って、あれこれ世話を焼いてくれた。それでも、昨日一昨日と全く声が出なかった。薬を飲んでいるのでだるいが、声が出ない以外はいつも通りなので、昨日はヨガに行ってみた。少しでも、良くしたかった。もしかしたら、声が出てくれるんじゃないかと期待したのである。ヨガの先生はポーズの途中で私に近寄り、鎖骨の下腕の付け根あたりをキュイキュイと押してくれた。鎖骨の下。私の言葉が溜まっている(ように感じている)場所である。偶然なのか?しかし、ヨガの後、かすれ声がかろうじて出るようになった。それでも接客は無理なレベルなので、今日も仕事を休んで家に居る。外は大雨だけれど、気持ちは天気雨の空のような明るさである。本当はいつも、大事なこと以外は話さずに、黙っていたいのかもしれない。そっちの方が、いいのかもしれない。

窓を開けて、インターネットで音楽を聴いている。インターネットがない時代は戻ってこない。声を失って、あれこれ考える、夏至のおひる前。




"with mouthful of prayers and bagful of dreams we will be in those spaces where you have never been."

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