2017年5月31日水曜日

くちなしとどくだみ

金土日とたっぷり3日間、40度まで発熱した息子は、自力で解熱した。平熱になったから「げんき」になったのかと思っていたら、違った。息子の言うところによると「きもちがゆがむの」。どうやら、「気持ちが揺れる」と言いたかったらしい。しかし、その言い間違い??の通りに、彼の気持ちは体から分離して歪み、連日荒れ模様。夜がくるのを嫌がり、眠ってすぐにうなされる。95cmほどの体の中にこんなにも、というくらいに、「ヤダヤダヤダヤダ!!」が詰まっていることを知る。声をかけて起こそうとする、現実に戻そうとする、と、「いわないで!!」と泣く。何もかにも絶望したかのように、何もかも拒否する。背中をさすろうとすると、「さわらないで!!」と泣く。時折うとうとしてしまい、ハッとして、それを打ち消すかのように大いに荒れる。大泣きする息子の横で、私は猫背で布団の上にだらしなく座る。息子が赤ん坊の頃は、こんなふうに、いつも泣いていた。火がついたように、青く光るように、そのうち浮くんじゃないかと思うくらいに、とにかく、息子は泣いた。息子の泣き声に合わせ夜は果てしなく拡がっていき、私は途方に暮れた。あらゆる内臓が古くなったゴボウのようにシワシワと萎んでいくようだった。昨晩も、私は2年前とほぼ同じように、布団の上に座っていた。どす黒い気分を内に充満させながら。

子どもが体調を崩すと、その親は疲弊する。回復した安堵も束の間、子どものどっぷりとしたわがまま、甘えが身にのしかかる。息子が平熱に戻ってから今日までの3日間、私は疲れている。うっかりしていると、舌打ちしそうな時さえある。きっかけは些細なことである。何か買い物して帰りたいと言い出してきかないとか、そうめん食べたいと言われ食事の途中でお湯を沸かし始めたらやっぱり要らないと言われたとか。堪えていたイライラが募り、安い錦鯉のような白目と黒目が今にも分離しそうな目で息子を見ると、息子は大人びた、諦めの表情をする。もしくは、愛嬌で乗り切ろうとする。自分が息子の心に開けた穴の形が見えるような気がして、私は冷淡に息子を観察する。

いつもは駅から15分ほど歩いてお迎えに向かうのだが、ちょっと疲れていたので、2つ前の駅で降りてバスに乗った。バスの時間まで10分ほど、駅の周りをうろうろした。駅前の大きな花屋はお休み。ただ、閉じられたシャッターの横に、くちなしが咲いていた。くちなしの花は真白く清く、甘ったるい香りを放出していた。大らかに枝葉を伸ばして、存在をアピールしているようだった。夕方は忙しなくだだ流れ、人びとは足を止めることもない。私は、何となく、しばらくくちなしの横にボーッと立っていた。そして、定刻通り出発した市営バスに乗った。

お迎えに行くと、息子は絵本を読んでもらっている輪から外されているところだった。息子にしては珍しく「はしりたい」と言い出し保育室を走ろうとしていたため(先生は説得を試みたようだが)、絵本の読み聞かせの邪魔になると判断されたようだった。息子は宙ぶらりんの顔をしていた。気持ちと体がちぐはぐで、落ち着かないのだろうと思った。荒れ気味の息子を言いくるめ、さっさと帰り支度をして玄関で靴を履いていたら、さっき絵本の読み聞かせをしていた先生が急いだ足取りで、息子に話をしにやってきた。私は「まだ体調がイマイチみたいで、気持ちが落ち着かないみたいで」と、母親っぽいことを言う。言ってみた、という感じだ。私の言葉は軽く、ふわふわと、玄関の白い天井まで上り、居心地悪そうに漂っていた。気持ちと体がちぐはぐなのは、私も一緒である。先生は全てご存知のようだった。

歩かない息子を抱っこして帰った。巨大なジャンボジェット機が、我々の頭上を通り過ぎて行った。落ちてきたらどうしよう、と一瞬、考える。誤魔化すかのように地に視線を落とすと、おびただしい量のどくだみが咲いていた。暮れかかる裏道で発光せんと咲いていた。なぜ、この季節は、こんなにも真白い花が咲くのだろう。そして、真白い花は枯れかかると、花びらのふちから徐々に、灼けたように茶ばんで汚くなる。かなしい。見たくないのに、見てしまう。どくだみの、真白い十字の花を次々目に入れながら、泣きそうになった。懺悔、という言葉が、細っこいえんぴつ文字で浮かんで消えた。

お風呂上がり、じっと静かにしていた息子から「ぼく、きょうはびょうきじゃない?」と尋ねられた。「うん、今日はうなされないよ。こわい夢も見ないよ」と返したら、安心したように布団に入った。息子は息子なりにうなされることを恐れていたのだろう。一緒に布団に入り「お母さん、余裕がなくって、いろいろイライラしちゃってごめんね」と言ったら「うん、そうだね」と朗らかに返され、あっという間に眠った。それから、2時間以上が経った。もう大丈夫。今日はうなされないようである。ああ、よかった。

ー子供より親が大事、と思いたい。
という一節がある、太宰治の『桜桃』を読み返してみたくなって、部屋の本棚を探したけれど、ない。仕方がないから、記憶の中の『桜桃』をこねくり回して、心の中で虚勢みたいに呟く。ー子供より親が大事、と思いたい。

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