2016年10月3日月曜日

30年

たしか、中学1年生か2年生の頃。キョンキョンのアルバムやラジオ番組から知った名前をつたっていき、既に発売から数年経っていた、いとうせいこう&タイニーパンクス『建設的』を、木村書店でレンタルした(当時、地元では、この本屋さんだけがささやかなレンタルコーナーを有していたのである)。ここでピンときていたら話はスムースなのだが、私はもう、とにかく、いとうせいこうのラップが嫌で嫌で、カセットテープにダビングすることなく返却したのである。他に借りた、気に入ったと思われるCDが何であったのかは思い出せないのに、「いや!」に奇妙な罪悪感や劣等感が入り混じった気持ちで、『建設的』を隠すように一番下にして、カウンターの店員さんに差し出したのをぼんやり覚えている。夏だったような気がする。

それから10年ほど経って、渋谷のorgan barで、いとうせいこうのラップ(ポエトリーリーディングだったかもしれない)を聴いた。決して広くないフロアはとても混んでいて、壁を触るとしっとり濡れていた。思わず濡れた手の匂いを嗅ぐと、ワインらしき酒の匂いがした。そしてまたしても、私はいとうせいこうのラップが嫌だった。出て行くこともできるのに、やっぱり最後まで聴いた。私はひとりで、大いに盛り上がる大勢の若者たちの背中を見ながら、「やっぱり苦手だなー」と思っていた。孤独だった。この夜、いとうせいこう以外にも出演していたと思うのだが、他は全く思い出せない。DJは誰だったんだろう。それすら思い出せない。

それからまた10年近く経った時、いとうせいこうに手紙を書いた。その頃、私は、精神的肉体的金銭的にキツイ頃だった。うろ覚えなのだが、たしか、RATIOという雑誌をいとうせいこうが何かで紹介していて、実際に買って、ジョルジョ・アガンベンの論考か何かを読んだような気がする(そしていくら探しても、現在の私の本棚で見つからない。内容を確認すらできないのである。本当にアガンベンだったのか)。なぜ、あんなに「いや!」と思ったラップの主が紹介していた本を、食べるものにも困っていたのに買ったのか、自分でも分からない。それで、手紙に何を書いたのかも覚えていないのである。手紙を書くって、よっぽどでしょ。でも、あの頃、私はもう決壊寸前で、ちょっとおかしくなっていたから、よく、会ったこともない、いろんなひとに手紙は出していた。

そしてまた10年。件の『建設的』発売から30年を記念して『いとうせいこうフェス』が2日間にわたり行われるというニュースを見た。どういうわけか、全く何の迷いもなく「あ、これ行かなくちゃ」と思ったのである。しかし……いとうせいこうのラップが嫌だったんじゃないのか、私よ。とりあえず夫に『建設的』と、聴かずに通り過ぎてきた『MESS/AGE』を借りてきてもらった。岡村靖幸『家庭教師』を聴き返した時と同じパターンで、すっかりはまってしまい、特に『MESS/AGE』をくり返し聴いた。私は、2日目のチケットを1枚、取った。嫌いなものを好きになるとクセになる。そういえば、夫のこともはじめは嫌だったもの。

いとうせいこうフェス公式パンフレット『いとうせいこうを探せ!』が発売されると、すぐに近所の本屋でそれを買い求め、だいじにちびちび読んだ。20代前半に編集者になりたかった頃に憧れたドゥ・ザ・モンキー編集で、それも含めて、いちいち胸が熱くなった。懐かしい感覚。90年代、自分がまだ10代20代前半だった頃、ありとあらゆる「カルチャー」を吸収したくて、夢中で探したり読んだり見たり聴いたり着たり会いに行ったりしていた頃のようだった。しかし、私も40才。今は、好きなものを自由に買えるのである(限度はありまくりますが…)。フェスに行くために、お洋服を探しに行ったり(結局、バッグと帽子を買った)、美容院に行ったりもした。おめかしをして、どこかへ出かけようとするのも久方ぶりのことである。へんだヘンだ変だ。あんなに「いや!」だったはずなのに。しかし、どうかしている自分がやけに嬉しかったりして。

仕事を早退し、息子を夫にお願いして、東京体育館へ。ものすごい人出である。心なしか、年齢層が高い。私のように、ひとりで来ている人も多いようだった。開演すると、なんだかもう、ものすごい「世紀末感」だった。興奮がこみ上げると同時に、もうこういうものはだんだん見れなくなっていくんだろうなぁ……とも思った。1999年の7月に世界が終わると10%くらい思っていた私としては、目の前の光景、それを受けてうねる私の内側、それはまるで遅れてやってきた世紀末みたいだった(この間の世紀末、私は大量の白鳥を目の前に当時好きだった人に電話をした。「もう世紀末だね」。世紀末と言ってまず浮かぶのは、実は、大量の白鳥と曇天である。それは実らぬ恋とともにとても哀しいけれど、平和的ではある)。とってもきらびやかで楽しいのだけど、それぞれのいとうせいこうへの想いだったり、生きてる人死んでいる人すらも関係ないような時空の無限の広がり?……途中ちょっと苦しくなるほどだった。たくさん笑って歌って踊って見ていたが、開演から3時間ほど経った頃、隣の席の女性に森永キャラメルを差し出し、話しかけてみた。いとうせいこうと「同年代」と言う彼女は、30年来のファンらしかった。ラジカル・ガジベリビンバ・システムの最初の公演から見ていると話してくれた。とても落ち着いた上品な女性で、私が話しかけない限り、話をすることはなかった。私が「若い頃、いとうせいこうさんのラップが嫌で嫌で」という話をしたら、「でも、何かひっかかりがあったんですね」と微笑んでくれた。岡村靖幸といとうせいこうのステージが終わり、「実は、私、14才の頃、岡村靖幸さんも嫌だったんです」と打ち明けると、「今は?」「今は好きです!」「好きになってもらえて、よかった」と笑った。

私が子供の頃は、家にビデオもなかったし、お金もないから、「これきらいかも……」と思っても、真剣に最後まで見たり聞いたりした。何とか少しでも「いい!」と思いたい。必死である。しかし、田舎娘にはそう簡単に都会の、大人のクールを理解できなかった。
単に「きらい」だったら、忘れてしまうのかもしれないが、不思議とひっかかりがある「きらい」もあって(後者の方がその時の嫌悪感は強い)、そちらの方は、どういうわけか、大人になって急に思い出すことがある。嫌すぎて、かえって忘れられないというか。振り返ってみると、「いや!」と思った原因は、私の未熟さやコンプレックスからだったり、実は気持ちの奥深くにある認めたくないものだったり、いろいろである。大人になった私は、ふと思い出したそれらをそこそこ簡単に手に入れて、読んだり見たり聴いたりすることができる。すると、その、いやだったはずのものが、若い頃とは全くべつのものとして浮かび上がってくる。そして、昔うんと嫌いだった分、とても好きになってしまうのである。
私の息子もすでにそういう傾向があるのだが、今を生きている我々は、何の考えもなく、見たくないところをスキップしたり、好きな曲だけを選んで聴いたりすることができる。それって、もったいないなぁと、若い頃苦手だったものを好きになってしまった私は思う。若いうちに好きなものを厚くすることはもちろん大事だけど、嫌だけど引っかかるものを厚くすることも、後の人生を少しだけ豊かにするように思う。

私は「これ、いいでしょおしゃれでしょ」が臭う「セレクト」が大嫌いである。しかし「これ、私は大好きだけど、あなたはどう?」と問われるように「編集」されたものはとても好きである。なるほど、いとうせいこうフェスは、集まった人たちが存分に楽しめるように、自分たちも楽しいように考え抜かれ作られた、愛溢れる会であった。ジャンルを限定したり、何かを押し付けたりが一切なかった。いつでも出入りは自由にされており、会場から出て休憩する人たちは、楽しげかつ真剣に、あれこれ語り合っていた。

いよいよフェスの終盤、ヤン富田のステージ。頭頂からずずずいと魂を抜かれるようで、頭の中がキーンと真っ暗になった。もしかしたら、走馬灯って、宇宙と繋がっているみたいなノイズも加わって、こんな風に聞こえるのかもしれないと思った。自分がいったん死んだみたいになって始まった、いとうせいこうとタイニーパンクスのステージは、だから、妙に気持ちがしんとして、静かに聴いた。30年、20年を経て改めて聴く、いとうせいこうの歌やラップ。切実さが胸を貫き、じわじわと熱く内に広がった。そう感じることができるようになったことが嬉しかった。少女だった私が知ったら、さぞ驚くことだろう。あの頃感じた違和感や「いや!」をなかったことにしなくてよかった。大人になって、本当によかった。

フェスが終わると、隣の席の女性は「また、どこかでお会いしましょう」と言ってくれた。いとうせいこうの30年。出演者の方々の30年。彼女や私の30年。それぞれ平等に30年は流れ過ぎていった。

きれいなものを血液中に流しながら、私は電車に乗った。電車の中にはいとうせいこうの顔が描かれたTシャツを着た人が何人もいて、それぞれにフェスの感想や30年前の自分について話をしていた。電車内のそんな方々に思い切って声をかけ飲みにでも行ったら面白いのかもしれないが、そうしなかった。私は、自分の体の輪郭をはみ出さんとする想いを抱きながら、ひとり、串揚げ屋のカウンターで一杯だけビールを飲むと、夫と息子が待つ家へ帰ったのだった。

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