2016年5月26日木曜日

宇宙の胚芽

焔の下の灰のように身を横たえながら
わたしは放棄した

いや違う わたしは眠り 闇の力にもかかわらず
子供のように覚るのだ 間もなくわたしは目覚めるのだと

ポール・エリュアール


夫は今朝5時55分発のハイウエイバスに乗って、空港へ。お母さんの退院手続きのため、実家へ向かったのである。2週間ほど前には、入院手続きなどのために、3日間家を空けた。その時はちょうど私の公休日2日間にあたったので、ナントカなったけれど、それでもやっぱりひとりはちょっと大変だった。というわけで、今日は休みを取って、息子を送って行った後は、ずっと家にいる。ようやっとの衣替えや、洗濯や掃除などで、あっという間に午後である。近所のタイ料理店にランチに行こうかと思っていたのだが、やめて、冷凍しておいたごはんとカレーで昼食を済ませた。

3回目の洗濯を終え、さて干そうとベランダに出ると、そこには侘しささえ漂う大きな鉢。越冬できずに、枯れたクワズイモの残骸である。買い求めた数年前には小さな一株の鉢だったのに、どんどん増え生長し遂には私の首くらいの高さになり、花まで咲いたのだが、私が出産のため里帰りしている間に半分根腐れし、さらに赤ん坊の息子の安全のためにベランダに出され、冬の寒さにとうとう朽ちてしまったのであった。それから半年の間、ほったらかし。今日まで何となく見ないようにしていたのだが、妙に気になり、株周りの(というのだろうか)ごわごわした茶色の皮を剥いてみた。すると、あ。胸が騒ぐような黄緑。あせあせと、乾燥しきった土から抜いてみると、なんとまぁ、白く若い根ができていた。他の株も見てみると、同じように新しく緑と白の部分を持っていた。洗濯物はそのままに、爽やかな風が吹く狭いベランダで、からだをちいさく折りたたんで、植え替え開始。4つの株を2つの鉢に植え直し、小さなものはグラスに入れ水を注いだ。窓辺の植物を置いているスペースに運び、いくつかの鉢の中で育った雑草を抜いていたら、あ。ドングリがパッカリ半分に割れ、中からすいっと芽が伸びていた。秋ごろ、息子が拾った3つを捨てられず何気なくトリネコの鉢に放り入れた、そのドングリである。よく見ると、もうひとつも亀裂が入っている。いつの間に。びっくりである。まだ若い芽を傷めないよう注意しながら取り出し、別の鉢に植え替えた。他のドングリ2つも、同じ鉢の中に、芽の横に添えるように置いた。急ぎの植え直しにより鉢が増え、結局、窓辺だけでは収まりきらず、いくつかを移動。ドングリの鉢はテーブルの上に置くことにした。

先の日曜版で海原純子さんの連載コラムを読んだばかりだったので、思わぬ「自然に備わった力の大きさ」を目前にし、とても嬉しくなった。私も特別な手入れを植物に施したことは一度もない。水やりもいい加減。「あーのど乾いてる感じするー」と感じたらやるくらい。植え替えも季節関係なしで、「鉢が窮屈な感じがするー」と感じたらやる。肥料もあげたことがない。土は、枯れた鉢の使い回し。今は一人暮らしではないので、10鉢くらいだが、中には10年以上育てている鉢もある。なので、このコラムを読んで、自分のいい加減な部分に太鼓判を押されたような気持ちになっていたのである(「そうそう、私はいい加減に見えますけど、いや、実は、自然の内なる力を信じることで、与えたいところをあ・え・て、一歩踏みとどまっているんだよね〜」などと、えへえへずらずら言ってしまいそう。ま、それは冗談として、)前の仕事でよく「おまえ、考えてうまくいったことが一度でもあるか?ないだろう」と言われていたけれど、確かに私は考えすぎるとだめみたい。パッと感じたことが大事みたい。

いま、ドングリは、大小6枚の葉を風に揺らしながら、私の目の前にある。自分が拾ったドングリがこんなふうになっていたなんて知ったら、息子はどう反応するだろうか。植物同様、息子の内なる力の邪魔をしないよう、極めて「いい加減」であろうと、やや胸を張って、植物たちと共に風を受ける私です。

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