2016年3月16日水曜日

思考

3月13日日曜日。毎日新聞朝刊、高村薫さんの連載『お茶にします?』は最終回であった。約2年ぶりに出勤した日曜日、混み合った休憩室で、ダラダラと新聞に目を通していた私は、そのタイトル「抽象的な思考はどこへ?」にハッとした。ザーッと目に入れて、一度、眼鏡を外し、ボーッと前方を見た。服装は綺麗に着飾った女性店員が、テーブルの下でだらしなく靴を脱ぎかけた足をブラブラさせながら、「こう見えて、私だって、恋してるんですよ」と話している。自分のことを、どう見えて、と思っているんだろう。なぜ、改めて宣言しているのか。「うんうん」と、相手の顔も見ずに相槌を打つ同僚らしき女性。「でも自分のスタイルを変えてまで、付き合いたくないっていうか、分かります?」「あー、そうだよね」「ですよねですよね」。少し目の奥に力を入れて、じっと2人を見る。そして、再び、今度はじっくり高野さんの文章を読んだ。

http://mainichi.jp/articles/20160313/ddm/013/070/042000c

独り身の時の私は、空中に浮かぶ薄雲をスッと手に取るようにして、抽象的な思考を厚く重ねていったような気がする。敢えて、難しい本を読んだり、映画を見たりして、自分なりに考えを拡げていったような気がする。それを自分の内におさめきれなくなって、私は、クリーニング店でのアルバイトのかたわら、手書きの小冊子をせっせとこしらえていたのだった。今や、全てとは言わないまでも、あらゆることが「具体」の日々である。考えさせられるようなもの(特に映画)は避けたい気分だ。私は芯から熱中すると、それ以外何も考えられなくなる。何も手につかなくなってしまう。しかし、そうなると、今は困る。それはそれで仕方ないし、それでもいいと思う。でもどこか、物足りないような気もしている。何かを考える時、対象からやや視線を外さないことには客観的全体は見えてはこないのは確かだ。具体、具体の日々からはなかなか得難い、何か、余白のようなもの、のりしろのようなもの、そういったものがなければ、何かが起こった時、泰然として、物事を見極められるだろうか。べたべたとtoo much につきまとう「情報」をかなぐり捨てて、自分の智慧を信じられるだろうか。

それで思い出した。大学の授業で(西研先生の現代思想の授業だったと思うのだが)、本質直感を行ったことがあった。あの時、私は10代の後半だったけれど、この「本質直感」の方法を借りて、今よりもずいぶんと物事を掘り下げて考えていた。とんでもなく幼稚だったけれど、自分の考えていることが拡がりを持っていくことの興奮。長い長い蔓を丁寧に掘り進め、「芋」に到達した瞬間。それが「芋」でなかった時のオドロキ。しかしまたそこから始まる新たなる思考。それについて他人と話す面白さ。(本質直感については、下のURLから、竹田青嗣さんと西研さんの対談をご参照ください)

http://www.phenomenology-japan.com/honntai.htm

※この対談でも出てくる「なつかしさ」の本質直感をまさに行ったのを覚えている。私のレポートが、コピーして配られた時はとても嬉しかった。先生が、私の手書きのレポート(あの頃はみんな手書きだったけれども)にアンダーラインをして「そうだ!「なつかしい」は、決してハッピーではない!」と書き添えてくださっていたのを今でも思い出す。もう一度、ちゃんと勉強し直したいなぁ。今ならもっと「身」になりそうな気がする。

明日は、夫と息子を家に残し、”Origin  of The Dreams” を観に行く予定。夫が「行ってきなよ」と言ってくれたのである。もやもやとしたさまざまな思考を内に湛えて、ふたつの眼とふたつの耳をぐっと開け、ステージに対したい。凝り固まった生活感覚や価値観を根底から揺り動かしぶち壊す、ほんものの衝撃。ただの容れ物みたいになった私は、春の夜の下をてくてくと歩いて帰るだろう。具体を腹の底に据え、抽象を体の線の外へ浮かばせながら。夢の起源。それって、いったい、どんなんだろうね。夫の帰り(お土産ビール)を待ちながら、春の夜は、漠とした思考に向いている。トリトメナクテ、ゴメンナサイ。

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