2016年2月20日土曜日

春と感

大学3年生の頃、ライター・編集者養成スクールに通っていた。当時憧れの職業であった編集者になるべく、月2回ほど授業を受けに行っていた。今なら、もっと貪欲に参加したのだろうが、とにかく私には金がなく(授業料はローンを組んだ)、授業後の飲み会にも参加できなかったし、なんだか、そういうことでやたらと引け目を感じて(周りは出版社で働く方々を中心に大人ばかりだった。おごってもらえばよかったじゃん)、消極的な私だった。
ある時、自由なテーマでエッセイを書くことになった。ある女性が書いた文章が忘れられない。その頃、著名な映画監督が自殺したのだが、死に至った理由は何だろうかと、方々で憶測が飛んだ。それをうけて、彼女は「(映画監督は)春の夕方に足を引っ張られ、自殺した」と書いていた。この部分だけを抜いて書くと、とてもセンチメンタルで、「女性っぽい」感傷に満ちた文章のように思えるが、全体に冷静で硬派な印象だった。一読して、私は嫉妬した。そして、実際は違うのかもしれないが、「あ、きっとそうだ。そういうことはある」と映画監督の自死に合点がいった。私は10代の頃、「春に足を引っ張られ」、家の者に黙って(制服のままキセルして)花巻まで行ってしまったり、暗い気持ちで線路を見つめたりしたことがあった。死ぬまではなかったけれど、春は死がとても近い季節だった。(そういうことを感じ取っていたのか、小学4年生の時、宮沢賢治記念館で母にねだって『春と修羅』を買ってもらった。私が人生で最初に触れた詩集である。それとも、彌生書房の世界の詩シリーズだったかな。いずれにせよ、私はそこで宮沢賢治の『春と修羅』を知ったのである。もちろん当時は読んでもよく分からなかったけれど、全体から「いい感じ」がして、とても気に入っていた。「いい本」って、まったく解らなくても、ページを開くとそういう「いい」感じ、匂い、予感みたいなものしますよね。)
「春の夕方に足を引っ張られる」。こういう言い回しで、こういう文章を書きたかったのに。私は「内容は面白いが、うまくまとめようとしすぎる」と評価された。何を書いたのか、さっぱり覚えていない。

30代半ばまでの私は、春を恐れていた。春風に吹かれていると、自分の知らぬところで、取り返しがつかないことが、どんどん進んでいる感じがした。取り立てて何も悩みがなくても、ふっと死んでしまいそうになる。眠りと死の境界がゆるゆると溶けていき、眠くてぼんやりした頭で、桜なんかが散る下を歩いていると、生きている実感が乏しくなった。こういう状態は気持ちがいい。中毒性が強い。今思うと、春に弱いと思い込みたかったのかもしれない。不安定な自分をまるごと春のせいにしてしまいたかったのかもしれない。以前の仕事の上司も春に弱かった。春が来るたび体調を崩すので、「もしかして、春に弱いんですか?」と聞いたら、ハッとしたようにして頷いた。単なる季節の変わり目ではない、春に弱い人々は存在するのである。

まだ2月であるというのに、季節は確実に春へと進んでいるようである。30代も後半となり、私はだいぶ春を克服した。感が鈍ったのもあるかもしれない。ただ、名残があって、帰りの電車の窓から、霞がかった多摩川を見るにつけ、先ほどの「春の夕方に足を引っ張られ、自殺した」を思い出す。こういう日の、こういう時間帯に、足を引っ張られそうになるんだよなぁ、と、ぼんやり思う。いつの間にか、ずいぶん日が長くなった。春って不思議だ。気付かぬうちに、さまざまなことがそーっと、しかし確実に進行している季節。昨日は、もうすでにアカシアまで咲いていることに驚いた。毎日前を通っていたのに… この木、アカシアの木だったのか… 後ろから急に「わっ!」と驚かされた気分である。でもきっと、花が散ったら、来年の春まで忘れているだろう。春の花って、そういう不意打ちの咲き方をする。それもまた、春に弱い人々の内側に、ヨワヨワと揺さぶりをかけるのである。それから、他の季節とは、音が違って聞こえる。遠くからよく響く気がする。先日、ヨガのレッスンの時、「内側に意識を向けてください」と言われたのに、私の意識は外へ外へ向いて行った。窓の外には大きな公園があって、そこから子供達が遊ぶ声や鳥のさえずりが聞こえてくる。目を閉じて、そこに大雪が降っている風景を重ねる。違和感。紅葉を重ねる。これも違う。ぴーかん照りの日差しを思い浮かべる。まったく合わない。春には春の音の響きある。そして、音の響きや光、空気の違いから、春を感じ取れるということに、かすかに感動する。

先週、保育園の先生から、息子がお昼寝の途中で目覚め、泣いてなかなか眠らない、という報告を受けた。「最近、ずっとそうなんですよ。以前は、トントンしたら、またすうっと眠ったんですけど…もしかして、断乳とかされてますか?」断乳!まったくそんなことは試みていないが、確かに最近は夜も同じように寝ている途中で大泣き、容易には眠らず、私も少し困っていた(寝不足)。私の息子は生まれてから今まで、朝まで熟睡したということが一度もない。夜中に最低2回は起きる。そういう時は、ちょっとおっぱいちゅっちゅっとして、また眠る。それが、この頃、ほとんど効かなかった。トントンなんてしようもんなら、さらに大泣き。どうなっとるんじゃー。というわけで、私は息子の睡眠についてあれこれ観察と研究を重ねた。何か気持ちに変化があって、甘えたいんじゃないか。体調が悪いんじゃないか(風邪気味)。起こすタイミングをどうしたらいいか。etc… 先生方も「(息子は)感受性が強いからかも」「先を読む力が出来てきて、成長する前のちょっとひと戻りかも」と、息子をよく見てくださって、毎日のように意見をくれた。

そんな時、息子より年上の女の子のお母さんと話す機会があった。「最近、夜中に泣いて起きて、おっぱいやっても泣いて眠らないから寝不足なんですよねー、たははー」と何気に言ったら、彼女はハッとして「うちと同じだ…」。さらに「…感が強いんじゃないですか?」と、距離を少し縮め、そうっと聞いてきた。聞くところによると、彼女の娘さんは霊感が強いらしく、亡くなったひいおばあちゃんが見えると言うのだそう(そういうことあるよね、子供の頃って)。この頃は、夕方になると熱を出すし、その日も朝、泣いていたらしい。理由を尋ねてもハッキリしない。彼女も私もお互いに話をしているうちに、「あ」「あ」「春だから」「そうですね、春だ」「春ってそういうところがある季節ですよね」と思い至った。彼女は「私の育て方が悪いのかな…」とまで考えていたらしいが、話しているうちにホッとしたと言ってくださった。私も、何だか、もやもやがスッキリした。

最近の息子はちょっと凄かった(保育園の先生は「吸収のスピードが速い」と言っていた)。昨日、夕刊で特急カシオペア復活の記事を読んでいたら、カシオペアの写真を指差し「とっきゅう。すぺーしあ みたい」と言う。「すぺーしあ」?… 息子が持ってきた写真絵本『とっきゅう』を開いて、びっくり。「スペーシアきぬがわ」の写真。「スペーシア」ならぬ「スペーシアみたい」とは… また、マッチの『振られてバンザイ』や『さんぽ』という歌をフツーに歌う… 歌詞が聞き取れるくらいのレベルである。「ばんざーい、ばんざーい」「わたしはーげんきー」と真剣な表情で、膝を屈伸したり行進しながら歌っていた。驚いて「どこで覚えたの?」と聞いたら、マッチは「とうちゃん」、『さんぽ』は「せんせい」と言う(確認したら、お散歩の時、年長のクラスの先生が歌うくらいと言っていた。先生も「そんなに気に入っていたの…?」とびっくりである)。絵本を読んでいても、文章そのまま覚えているし、やたらとアタマを使っている感じであった。夜中、寝言も言うようになった。「まだー!」「あけてー!」「びーびーびー(DVD)!」など。決して「ままー」ではないのである。完全に夢を見ているようである。ちなみにたった今も「まだー!」と泣いて起きた。部屋に行ってみたら、布団の中で座って泣いている。近づいて、抱っこしようとしても、からだ全体でイヤイヤしながら「まだまだまだまだー!」。今までなら、おっぱいちゅっちゅで寝るところ、それも拒否。目は完全に閉じている。しかし、私はこれを納める方法を見出したのである。今のところは、だけれども。間違っているかもしれないけれども。

息子は「言葉の人」になってしまったのである。言葉で理解しようとしたり、感じていることを言葉で伝えようとしたいのである。そう思った時、私は自分がどうしたらいいかわかったような気がした。それで昨晩、泣いて起きた時、私は暴れる息子を抱っこして「大丈夫だよー」なとどしっかりした口調で声をかけてみた。すると、あら不思議。少し落ち着いて、おっぱいを少しちゅっちゅっとして眠った。そして、もう起きなかった。そのことを今朝、担任の先生に報告。お昼寝で同じように泣いて起きたらしいのだが、先生も同じように「大丈夫だよー」と腕枕をして声をかけてみたらしい。すると、あら不思議。やっぱりすうっと眠ったらしい(もちろん、おっぱいなしで)。そして、しばらくぶりに2時間以上、お昼寝をしたとのことだった。ちなみに今も、この方法で再び眠りについた息子である。

保育園からの帰り道、アパート近くの空き地(どんど焼きが行われた場所)まで来ると、「まてまて〜したい」と息子は言う。ベビーカーから降ろして、薄暗い中、手をつないで歩く。ひんやりした薄暗さにも、どことなくまろやかさがあり、やや弾力を感じる空気の中を進む。これはまぎれもない春の夜の匂い。「くらいくらーい」と息子。絵本『くらい くらい』の一節を諳んじているのである。鼻から空気を吸ったら、梅の匂い。「ねえねえ、鼻からこうやって空気吸ってみてー。梅のいい匂い。春の匂いだなぁ」と言ったら、「いーにおい」と、私の口真似をして、息子は笑った。いつか、君が大きくなって、春に足を引っ張られそうになったら、いつだって側に行って「大丈夫だよー」としっかりした口調で言ってやる。ーうまくまとめようとしすぎかな。いや、でも、ほんとうの気持ちである。


春と修羅
(mental sketch modified)

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路めぢをかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素エーテルを吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ


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