2015年11月21日土曜日

がまん玉

帰りの電車で、赤ん坊が泣いていた。まだ生まれて半年も経たないくらいだろうか。それにしても生まれたての赤ん坊の泣き声は、なんて甘ったるいんだろう。それは、皿にひっついたキャラメルのように甘く、切実であった。やや混み合った、もわっと暑い車内で、なんの衒いもなく、赤ん坊は泣いていた。私はいよいよ読了を迎える三島由紀夫『命売ります』のエンディングにふさわしい、ナマのファンファーレを心から歓迎したが(いや、しかし、小説はむしろ静かにひっそりと終わりを迎えるのであったが)、黒い上着を着た乗客らは冷たい白目で、時どきちらっと赤ん坊がいる方を見やる。きっと母親はいたたまれない気持ちでいるだろう。そんなことを思っていたら、泣き声は薄くなった。窓の外を見ると、泣き声の主は、すでに初冬の夕方の薄暗い駅のホームにいた。若い母親はベビーキャリアのひもを調整し、いくつかの荷物を持ち直すと、黒い上着の乗客らに続いて出口の方へ流れていき、電車は何事もなかったかのように、次の駅へと向かって走り始めた。

先週の金曜日から日曜日まで、家族で福岡へ行ってきた。福岡は夫の地元である。ちょうど夫が「BGM係」の用事で福岡に呼ばれていたこともあって、思い切って行くことにしたのである。3日間、息子はとてもおりこうだった。心配していた飛行機でも、息子はおとなしくしていた。離陸する際の、まるでタイムスリップしそうなほどのスピード感に「マ、マー…」と圧倒され、そのまま目を閉じ眠ってしまったのであるが。誰に対しても、初対面はほんの少しこわばった表情だったけれど、すぐに笑顔を見せ、皆を喜ばせた。大人の社交の場でも騒ぐことなく、車のおもちゃでひとり遊んで、手がかからなかった。食事の場では、きちんと子供用の椅子に座ってスプーンを握り、自力でごはんを食べていた。息子の目を瞠るほどの成長に喜ぶ一方、「いい子すぎる」と私は思っていた。「いい子すぎる」のは、周りはとても楽ちんだし、良いことに違いないのだけれど、どうも不安になったのである。

そして、「いい子」のツケは月曜日の夜に訪れた。園にお迎えに行ったら、私の顔を見るなり大泣き。それはもう、豪華絢爛な大声で、息子は泣いた。息子のそういう姿は園では珍しく、お母さん方はびっくりしていた。はじめのうち、私は軽い、明るい態度で、息子の気を取り直そうとしていたのだが、全く通用しなかった。半ば無理やりベビーキャリアで抱き上げると、彼は激しく抵抗した。息子は力がとても強い。暴れているうちに、ベビーキャリアから落ちてしまいそうだった。私は息子を下ろすと、彼の背中をそっとさすって、様子を見守った。息子は全てを全身で拒否し、体を赤く熱くして、ひたすら泣き続けた。ものすごいエネルギーの放出である。同じクラスのSくんとお母さんが、息子が泣き止むのを「一緒に帰ろう」と待ってくれていた。まるでキャンプファイヤーの火を見るように、私たちは息子を囲んで座り、目を固く閉じて時にいやいやをしながら泣き続ける息子を見ていた。(いつもぐずるSくんは、この日は全くぐずらなかった。)この日、保育園でもおりこうにしていたらしく、「確かに最近、ずいぶんおりこうでしたね」と担任のM先生は、キャンプファイヤーの輪に加わりながら、しみじみ言った。あまりに泣き止まないので、おっぱいをやってみたら、ようやく息子は泣き止んだ。園でおっぱいを出すとは… おっぱいを覆ったコートの下から息子の真っ赤な左目が私をじっと見た。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。落ち着いた息子を抱いて、待っていてくれたSくんと4人で帰った。しかし、家に着いてからも息子は大荒れ。ごはんも食べずにあっという間に眠って、目覚めるとまた泣いた。翌日もよく泣き、夕方には発熱。その翌日には、両てのひらに湿疹がたくさん現れた(皮膚科を受診させたら、かぶれとのことだったけれども)。まるで、少しずつ溜めていた「がまん玉」を爆発させたかのようだった。荒れる息子は、言葉は悪いけれど、正直、面倒くさい。でも私は心底ホッとしたのである。「自分を思いきり出せるところがあるって、しあわせね」とM先生は仰った。

そういえば、福岡で、寝しなに、息子が気に入っている絵本『すりすり ももんちゃん』(とよたかずひこ作/童心社)の中の「がまん がまんのももんちゃん」のところ(3回登場する)を8回繰り返して読まされた。サボテンさんのトゲが刺さったももんちゃんが、お母さんに抱っこされるまで、泣くのをがまんするくだり。ももんちゃんがお母さんに抱っこされて泣くシーンで、息子は私に抱きついて、ももんちゃんの真似をした。「ももーん」と息子は笑って、もう一度、とせがんだ。あの時、君も「がまん がまん」だったんだねえ。

「がまん玉」は、日々発散され、だいぶ小さくなったようで、息子はようやく落ち着いてきた。「栗蒸し羊羹買ってきたよ。食べるかい?」と聞いたら、嬉しそうに首を振り「うんうん」。先週初めて会ったおばあちゃん(夫の母)にそっくりの口調で言う。ひとくち口に入れると、目を大きく見開いて「ん、まーい!!」。生まれて1年4ヶ月。ずいぶん人間らしくなってきましたね。でも「おりこう」はほどほどで。

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