2015年11月4日水曜日

落下

「今朝、この子、ハイチェアーから落ちたんですよ。あっ、すり抜ける、落ちる、と思った時にはもう遅かった。足から落ちて、こう、着地したみたいになったんです。泣いたけど、大丈夫みたいで。すごく怖かった。震えました」

金曜日、同じクラスのお母さんがそんなふうに話してくれたのを、ああ怖い、そんなこと実際にあるんだ、などと、どこか他人事のように、しかし自分にも起こりうることだとして、気をつけなくてはと思っていた矢先の出来事だった。
電車で、息子が座席から落下した。

歩き始めて1週間ほど。お休みの日は、朝から自分の靴や帽子を持ってきて、外へ行こうと言うようになった。朝1時間半ほど散歩し、午後も3時間ほど外出。手をつないだ息子は得意げに歩を進めながら、達成感を感じた時や機嫌がいい時に発する「アイジューワー!」を連発。今朝は近所の小道でハイハイの姿勢になり「ワーワー、アー!」と聞いたこともない高音を発しながら、猫に近づいて行った。耳のついたニット帽をかぶり、目線を同じにした息子に猫は逃げず、どこからか一匹も現れて、3匹?は視線を投げ合っていた。息子が手を出して、お開き。「はっぱー」「ジュワー!アー、ジュワー」「わんわん!」あちこちを指差しながら、目を見開く。この世には、そんなにも、驚くべきことがたくさんあるのか、と私も息子の目線になって、あれやこれやを見て歩いている。地面に張って葉を伸ばすたんぽぽや雑草は地面に施された刺繍のようだった。風でとぐろを巻く落葉した葉は、私たちを惑わすかのように、アスファルトの上を移動した。柿の葉の、朱と緑の上の黒っぽい斑点。道路に投げ捨てられた食べかけのみかんは、なんて、みかんみかんした色なんだろう。そんなふうにして、息子と2人で出歩くのは何とも愉快だけれど、何をするやらどこへ行くやら一瞬も目を離せず。
午後から、お気に入りの公園へ歩いて向かった。小川に入りずぶ濡れになったので、芝生の上で着替えさせようとしたら、「ぱん!ぱん!」とリュックを探った。たっぷり遊んで、お腹が空いたのか、おやつが出てくると思ったらしい。また駅前でたい焼きでも買うか、と思っていた私は何の用意もしていなかった。探っても探っても、「ぱん」は出てこない。「お茶はあるよ」と言ったら、息子は泣き出した。晴れ晴れとした空の下、休日の公園に響く息子の激しい泣き声。むりむり着替えさせ、荷物を急いでリュックに投げ込むと、暴れる息子を抱っこして公園を出た。歩き始めてますます力強くなったなぁ。妙にしみじみとした気持ちだった。10分ほど経っても息子は全く泣き止まなかった。電車が見えてきたので「ほうら、電車が走っているよ!」と言ったら、私の指差す方を見て、嘘みたいに泣きやんだ。「…ばちゅ」「そうだねえ、バスの友達、電車だね」。どうしてそんなに乗り物が好きになったのか。駅前の小さなパン屋さんでパンを買い、バスプールの横で座って食べた。「ばちゅ!アー!」機嫌を取り戻した息子と一駅だけ電車に乗って、帰ることにした。
電車に乗って、リュックの口が開いていることに気がついた。先ほどの公園で雑雑とそのまま荷物を投げ入れたので、口からはレジャーシートを入れたゴミ袋がひらひらと白くはみ出していた。停車していた各駅停車に乗り込み、11.4kgの息子を座席に座らせた。いつもなら、支えて座らせているのだが、全く油断した。小川に入ったし、駅前でパンを食べたから、息子は手が冷たかった。荷物の整理を兼ねて、私のパーカーをリュックから取り出そうとした。あ、さっき買った350mlの温かいほうじ茶。「これ、あったかいよ」と渡すと、息子は両手でそっと受け取り、ほほえんだ。安心して、視線をリュックに戻すと、バターン!と大きい音がして、車内の空気が変わった。息子が顔から床に落下していた。右を向き、うつ伏せになって床に落ちた息子を、抱き上げる。唇をめくって、歯が折れていないか、どこか切ってはいないか見た。息子は泣いたが、抱っこして、おでこや顔や頭をさすると泣きやんだ。いつの間に電車は走り出したのだろう。前の座席の下に入り込んだほうじ茶のペットボトルをしゃがみこんで拾う。息子は私の右手を握り、立って、それを見ていた。ベビーキャリアで息子を抱っこすると、彼はまた泣いた。自分で歩いて電車を降りたかったのである。謝りながら、また雑雑と慌ててリュックに荷物を投げ込むと、逃げるように電車を降りた。ホームに降りると、去っていく電車を見て、もう息子は泣きやんでいた。階段を上り、改札の手前まで来ると、私は息子をぎゅーっと抱きしめた。息子は私の腕の中でじーっとしていた。しばらくそうしていたら、「ばちゅ…」と言う。予定していた買い物もせずに、抱っこしたままでバスに乗って家に帰った。あまりにずっとぎゅーっとしていたからか、息子はすぐに眠ってしまった。

不安で、心配で、自分の愚かさを悔いたり恥じたりしながら、夕飯の支度をし、洗濯物をたたんだ。秋の、いい、夕暮れだった。寝ている息子がちゃんと息をしているか、しばしば見に行った。たんこぶも打身も見当たらない。触るとあたたかい。熱はないだろうかと計ると平熱だった。すこしずつ落ち着いたころ、ぐずぐずと息子が目を覚ました。一緒にご飯を食べた後、目の前でりんごを剥いてやったら「オオオオー!」と目をまん丸にして喜んだ。「おっぱ、おっぱ」と、おっぱいを求めるので、いつも以上に甘えさせた。でも心なしか、いつもより言葉数が少ないような…そう思っていたところに、夫が帰ってきた。午後に起こったことを話していたら、息子が中腰になり、「ドーン!」と言って、私と自分の額を平手で叩いてきた。こんなふうにドーン!と落ちて、おでこを打ったよ、と夫に報告しているようであった。口を尖らせ、目を丸くして、息子は衝撃を語った。それからはいつもの息子に戻り、夫のお土産のたい焼きをガブガブ食べて、ごきげんだった。「モグモグ、ナァニ?」と言っては、にやにやしていた。

いま、ふいに目が覚めて、これを書いています。
あれ?寝ているはずの息子が、「アイジューワー!」と言った。寝言らしい。夢の中でも歩いているのかな。お母さんは、気を改めます。だめだめな母でごめんなさい。

0 件のコメント:

コメントを投稿