2015年10月28日水曜日

秋の闇

すっかり日が短くなって、息子と帰宅途中の18時半頃、あたりは真っ暗。私は白内障の手術後から、外を出歩くときは欠かさずサングラスをしているので、裸眼よりワントーン夜が暗い。足元に気をつけながら、アパートの近くの細い路地を進む。弱々しい街灯と家々の明かり。右手に現れる、盆踊りやどんど焼きが行われる空き地は、ひときわ暗い。昨日、そこに、外套の襟を立てた男が浮かび上がり、すらりとした女の後を猟犬のようについていくのが見えた。実際にはいない男と女の姿である。あっ、と、私は思わず声に出した。暗がりに映し出されたのは、西東三鬼の『神戸』、冒頭の場面。

私は目が悪くなってからというもの、以前ほど本を読まなくなった。縦書きを目で追うと、目が苦しくなるからである(「目が苦しい」、それ以外に言いようがない状態)。それまでは、結構な量を読んでいたと思う。本棚だけでは足りなくなって、ついには、台所の収納まで本でいっぱいになったこともある。あるアフリカ人が「お年寄りひとり死ぬのは図書館ひとつ焼けて無くなるのと同じ」と話してくれたことがあった。図書館というには及ばないけれど、私の中にも触れられない書庫のようなものがあって、何かの拍子に、思いもかけず、不可視の手が当たり地に落ちて、ページが開き、いつか読んだフレーズや場面が目前に現れることがある。すぐに「あの本だ」と思い出せないこともあるが、たいていの場合、私は現実の本棚に向かって、その一冊を取り出し、そのページを開くことができる。考えてみれば当然かもしれないが、それは私の血肉になった本から現れることが多いからである。

そういうわけで、今日、私は『神戸/続神戸/俳愚伝』(西東三鬼/講談社文芸文庫)を持って家を出た。5年ほど前の3月に、高速バスに乗って0泊3日で神戸へ行ったことがあり、その際、この本を持って行った。薄暗いバスの3人掛けの狭い座席に座って、息を殺して、文字を追った。隣には着物姿の女性。彼女の寝息を聞きながら、数時間後に到着するであろう神戸を思った。結局、長くは読めなくて、本を手にしながら借り物の毛布をかぶって、私も眠った。神戸に着いてから、数回はページを開いただろうか。ー読むのはその時以来かもしれない。

 その窓の下には、三日に一度位、不思議な狂人が現われた。見たところ長身の普通のルンペンだが、彼は気に入りの場所に来ると、寒風が吹きまくっている時でも、身の廻りの物を全部脱ぎ捨て、六尺褌一本の姿となって腕を組み、天を仰いで棒立ちとなり、左の踵を軸にして、そのままの位置で小刻みに身体を廻転し始める。生きた独楽のように、グルグルグルグルと彼は廻転する。天を仰いだ彼の眼と、窓から見下ろす私の眼が合うと、彼は「今日は」と挨拶した。
 私は彼に、何故そのようにグルグル廻転するかと訊いてみた。「こうすると乱れた心が静まるのです」と彼の答は大変物静かであった。寒くはないかと訊くと「熱いからだを冷ますのです」という。つまり彼は、私達もそうしたい事を唯一人実行しているのであった。
(『神戸』「第一話 奇妙なエジプト人の話」(西東三鬼)より)


最近の私ときたら、主に職場で、事あるたびに「むずかしい」を連発している気がする。『神戸』を読み始めて、どういうわけか、私はそのことに気がついた。例えば、職場の人間関係。例えば、接客について。それはどれも、大して「むずかしい」ことではないのだが、どうも言い訳のように「いや、むずかしいよね」などと言ってはお茶を濁し、時間空間を埋めている。しかも、タチが悪いことに、これらの「むずかしい」に私の感情は込められていない。大人なら、思ってもいないことを口にすることはある。それが必要な時もあったりする。でも、この「うーん、むずかしいよねー」は、なんだか不潔な感じがする。自ら制限をかけている感じも嫌だ。ほんとうに芯からむずかしいことなんて、今の私の周りには少ないような気がする。『神戸』の世界に入り込んだら、あー、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃった。明日から、うっかり「むずかしい」と言いそうになったら、左の踵を軸にして、天を仰いで廻転してみようかな。存外、簡単なことかもしれぬ。

灯を消せば我が体のみ秋の闇     西東三鬼


さて、息子の眠る和室へ入り、私の体も秋の闇になる。リセットされたみたいになって、また朝がくる。
ーおやすみなさい。

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