2015年10月12日月曜日

塔の番

水曜日、友人が招聘しているミュージシャンのライヴに行った。一足先に彼らの演奏をみていた夫が「行ってきたら」と言ってくれたのである。家事育児の一切を夫にお任せし、仕事が終わると、ハチ公口からセンター街(今は、バスケットボールストリート、でしたっけ)を抜け、スペイン坂を上り、会場へ向かう。毎日渋谷に通っているのに、こちら側へ足を向けるのは、久しぶりのことだった。明るすぎて騒がしく雑雑していて、入ってみようかなと思う店が一軒たりともない。驚いた。ずいぶんと変わったのね。以前から猥雑なところが多い街だったけれど、もう少し人懐っこさがあったような。宇宙人のような気持ちで「永遠に21才」という恐ろしい名を冠せられたブランドの、光る看板を見上げた。

受付や物販をお手伝いしようと思って行ったのに、結局、何一つ手伝うこともなく、肝心のライヴもほとんどみなかった。ただ、夫が「冒頭はぜったいにみてね!」と言っていた、全員が顔が隠れるほど広いつばの帽子をかぶって演奏している最初の曲と、次の曲まではみた。満員のライヴハウス。人と人の隙間から、時どきチラッと見えるステージ。最後尾からは、ミュージシャンの顔よりもお客さんの顔の方がよく見えた。皆、同方向にきらきら光る眼を向け、リズムに合わせ体は揺れている。人間ってなんてかわいらしいんだろう。戦争はどこかで今も続いていて、でも、日本の東京の渋谷のこの場所では、こんなにもチャーミングな音楽に皆が胸を熱くしている。ライヴハウスの、その限られた空間の中で、目にするもの全てに、私はじーんとした。そして、2曲目が終わると、重たい防音扉を開けて、外へ出て、もう戻らなかった。

15年前ほど前に小田急線沿線の小学校の校庭で野外上映(『初恋のきた道』チャン・イーモウ監督)を見た。校庭に体育座りをして、じょじょに暗くなる空の下で、見知らぬ老若男女とバラバラと座って、見たのである。背後には小田急線、電車の中から「あれ、何やってんだー」と覗く人々、校舎に掲げられた大きな大きなスクリーンの向こうのマンションに少しずつ少しずつ部屋の明かりが灯っていくのが見えた。ちょうど今くらいの、秋の夜だった。あんなふうに、野天でこのひとたちの演奏を聴けたら、きっといいだろう。夜露を気にしながら、草の上に座って、遠くにステージの明かりが見える。音楽は夜風に乗って、耳元へやってくるだろう。

「いやーすばらしいですね」と言いながら、ライヴを抜け出たお客さん数人がぽつぽつと、物販ブースにやって来た。はじめのうち、すばらしいなら見ていればいいのに、と私は思ったが、かく言う私もライヴを見ずに物販ブースで自らお留守番をかってでているのである。以前、CDを聴いた時もそうだったけれど、それは、聴いているうちに「立ち止まってしまう」不思議な音楽なのだった。「イマの自分」を問われているような気がするというか、頭の中を流れている考えを中断されるというか… いや、そこまで重たくないのだけども… 好きだし、いいと思うし、みていたいとも思うのだけれど、どうにもそこから離れてみたくなる。お客さん(4、5人だけれども)は、それぞれ言葉少なではあるけれど、誰かと何か話したいようだった。うろうろしたり、ベンチに座ってぼんやりしたり、買う気もないのに物販ブースを眺めてみたり、まるで履いてきた靴をなくしてしまった人のように落ち着かない様子である。お酒を買いに来ただけの人もいたけれど、音楽はいいのに戻りたくない、そういう気持ちも解る。じっさい、私がそうなのだから。しんとしたフロア。誰かが防音扉を開けて外へ出てくる一瞬、音がどどっと流れ出てくる。ああ、いま、あの中で「生演奏」しているんだな、と、久しぶりに飲んだギネスで酔った頭で思う。みに行こうかな、あの扉を開ければ、と思いながら、そうせずに扉をじっと見つめた。(この気持ちを何とか言葉にしてみようと、ここ数日あれこれ言葉を探してみたけれど、難しい。気が乗らない、と言ったらそれまでなのだが… それとは全く違うのである。何を言っても誤解が生じそう。だけど、あえて書いてみました。)

この夜、「音楽って、すばらしいですね」という言葉を何度か耳にした。終演後の物販ブースは人でごった返していた。皆、さっきまで共有していた音楽の素晴らしさを確認しようと、忘れないようにしようとしているように見えた。靴をなくした感じの人は、もう見当たらない。そうか、そんなに良かったんだ、みに行けば良かったかな、などとちょっぴり後悔するくらいが、私にはちょうど良かった。私は友人たちの「音楽って、すばらしい」には同調せず、ただ微笑んでいた。するすると舌先だけで「そうですよねー」と言うことは容易かった。それでも、そうしないことで私は私の「音楽って、すばらしい」を護ったつもりだった。音楽は、今、私にとって少し遠いところにある。映画やアートもそう。存在を意識して、姿は見えないくらいがちょうどいい。お母さん業ばかりやりすぎかな。天性の天邪鬼かな。まあ、どっちでも、めんどうくさい人間であることに変わりはないけれども。

昨日、雨が上がって、息子を連れて散歩に出かけた。雨上がりの桜並木、落ち葉を拾って「はっぱ」、息子の手に握らせる。息子は「はっぱー、はっぱ!」と言い投げ捨て、別の葉っぱを要求する。ヘレン・ケラーに言葉を教えたサリバン先生も、こんな気持ちだったのだろうか。人間が言葉を獲得していく過程を目の前で、今、私は見ているのだ。そして、「はっぱー」と嬉しそうに言葉を発しながら、落ちた葉生える葉を触る息子を通して、私は「葉っぱ」を再発見している。「葉っぱは寒くなってくると木から地面に落ちて、寒い冬、自分を温めたり、栄養にして春に備えるよ」。息子に言ったことに、ああ、そうだった、自然ってすごいなぁ、などと、思わず立ち止まってぼんやりする。

真夜中、隣で眠っていた息子がぐずって起きた。38度からあれよあれよという間に40度。手足が冷たくなり、震えている。こういうことは初めて。解熱剤を飲ませて、抱いて眠った。朝になると、まったく熱はなく、食欲も旺盛。何かあったらと仕事を休んだ夫は、「お父さんに休みをくれてありがとう」などと言っている。それでもやはり体調はすぐれないようで、お昼ご飯はめずらしくほとんど食べなかった。Diana Krall "Wallflower"をかけて、3人でごろごろしていたら、男2人は同じ体勢同じ顔をして眠ってしまった。私は開け放した窓の下で腹ばいになって、これを書いています。息子によって本棚から投げ出された大小さまざまな本が畳の上に散乱する中、川の字になって。私の左手の届くところにあった『ゲーテ格言集』を、何か占うかのように開いたら、灼けたページに「なんでも知らないことが必要なので、知っていることは役にたたない」(「ファウスト」第一部1066-7行/高橋健二訳)とあった。そういえば、いま読んでいる埴谷雄高・大岡昇平の対談集『二つの同時代史』、樋口覚さんの解説には「ファウスト」から以下のような引用がある。

見るために生れ
見よと命ぜられ
塔の番を引受けていると
世の中がおもしろい。
遠くを見つめると
近くに見える、
月も星も
森も小鹿も。

私もまた、天から塔の番を引受けている最中なのである。これまで見えなかったことを見、やりすごしてきた気持ちと向き合い、場合によっては折り合いをつけ、自分を育て直しているところ。「音楽って、すばらしい」と、湧き上がる思いを言葉に変換して口から出す日がまた来るかな。今はただ、透明の容れ物のようになって遠くを近くを見つめたい。2種類の寝息を聞きながら、そんなことを思う38才11ヶ月です。

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