2015年6月17日水曜日

栄養

日曜日、久しぶりに息子を連れて渋谷へ行った。ディエゴ・シン個展を見に行くのが目的。電飾?に囲まれた長い長いエスカレーターを上る。息子は鼻の下をうーんと伸ばし、下を覗こうと必死。華やかなファッションビルの中を歩く。息子は若干、緊張気味。よだれも控えめに、おしゃべりもしない。8階のギャラリーに着くと、会場には私たちだけだった。白い白い、決して広くない部屋に、インディゴの絵がいくつか。
「ねえねえ、どの絵が好き?お母さんは、この絵かなぁー」と、光の筋みたいなものが紙テープのように絡まっているような絵を指差す。「あ、こっちも好きだよ」と言うと、それまで無口だった息子は、絵を指差し、身を乗り出して、アーアッアンマーパーパッパパー、とおしゃべりを開始。「ああ、そうだね。きれいなだけじゃない。そうそう。いろんな感じ方があるねえ」と言うと、満足げに、にまーっと笑った。
私は自分の価値観を押し付けないよう注意しているつもり。でも結局は、多少なりとも押し付けているんだろうなぁ。仕方ない。かあちゃんのところに生まれたからには、仕方ないんだぜ、息子よ。

渋谷に行く道すがら、電車やデパートの中で見知らぬ人に声をかけてもらった。息子は保育園生活で培った社交性を発揮し、笑顔を振りまいた。「バイバイ。まだわかんないよね〜」と何人かが言った。いや、もういろいろ解ってます。意志もあるし、好みもある。ウイットの類もけっこう分かっていると思う。私の息子が、という意味ではなく、赤ちゃんって首がすわったら、もういろいろ「つかんで」いるような気がする。全身を脳みそにして、あらゆることを感じ取っている。息子は私の表情や声の高低、体温の変化をみている。そういうところから、「これがいいんだ」「これがすてきなんだ」「このひと、いやなひとなんだ」と察してしまう。価値観って、こういうところから培われていくのかもしれない。価値観の礎。それを間近で見ることができる。

と、月曜日、ここまで書いたところで、息子が発熱。今日もまだ本調子ではないので、保育園を休んで(私も仕事を休ませていただいて)、もともと仕事がお休みだった夫と3人、ダラダラしている。今、夫は食器を洗い、息子は本棚から本を抜き出し一冊一冊カバーを取り外し、どこからか破りとった地図で遊び、私は敷きっぱなしの布団に腹ばいになって、これを書いています。スピーカーからは岡村靖幸さんのライブ音源。夫の大好きなアレックス・チルトンの話になり、アレックス・チルトンについての文章が載っている直枝政広さんの本『宇宙の柳、たましいの下着』の話になり、そこから(その本のことも登場する)ユリイカの岡村靖幸さん特集での直枝さんの寄稿文についての話になり。聴いているのである。あ、息子(おでこに冷えピタ)、座って伸ばした足で、腰を上下させて、リズムとってる…めちゃくちゃ笑顔なんですけど…

ところで、その直枝政広さんが書かれたユリイカでの文章が、とてもいいのである。初めて書店で立ち読みした時は、胸が震えた。読みながら、レジに移動した。

楽しい時間が過ぎ、そろそろお開きという頃、「直枝さん、おみやげです。食べてください」と小さな紙袋を彼が差し出した。それは下町で有名なパン屋の食パンだった。「じゃ、またお会いすると思います」と言って岡村靖幸は深い闇の中をタクシーに乗って消えていった。ぼくはワインに少し酔ったし、特別な会合の余韻が治らないままに深夜を迎えた。我がアイドルにもらったパンを台所で立ってじっと眺めた。指で押したり揉んだりしてみた後、袋を開けたらすごくいい匂いがした。一切れ食べた。柔らかく、しかもコシがあって、懐かしい香りがたっぷりと詰まったパンだった。おいしかった。夢のようだとも思った。岡村靖幸に手渡された一塊の栄養がすべて自分のものになってゆくことが信じられなかった。ぼくはそれを三日かけて大切に噛み締めながら全部食べた。
(直枝政広「ある家庭教師の鍵」/ユリイカ 2013年7月臨時増刊号)

こうして引用してみて、直枝さんの文章を改めて噛み締めてみると、じわーっと奥歯から滋味が溢れ出してくるみたい。いまだ胸が熱くなる。

身を焦がしながら何かを好きになったことがある人、大事だった何かを失ったことがある人、胸に棘が刺さったままの人。

むかし、映画の仕事をしていた時。脚本を直しながら、撮影準備を進めながら、編集作業をしながら、取材の前後に、監督は繰り返し私にこう言った。「時代が変わって食い物が変わって、人間の腸の長さが変わったとしても、人は何かを感じることでは変わらない。それを、我々は信じようじゃないか」

感情を動かしながら、けものから人間になっていく息子。邪魔をしないようにしなくては。理不尽なことがたくさん起こる世界だから、自分の感覚を大事にできるように、タフに。いつか大きく何かを失って、ぽっかり心に穴が開いても、生き延びていけるように。

定まらないお天気。部屋に光が射してきた。ホットケーキ焼いて、みんなで食べよう。風邪、早くよくなりますように。体と気持ちと、もしかしたら魂の、栄養を君に。

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