2015年4月2日木曜日

連載小説

3月1日から、毎日新聞朝刊で、平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』が始まった。なんとなく気ぜわしく落ち着いて読めないような、今はまだ読む気になれないような。でも、いつか読む日のために、毎日せっせと切り抜いて、洗濯バサミで留めておいた。

今日から遂に、息子の慣らし保育が始まった。8時43分、園に一番乗りで到着。昨日の入園式ではスーツ姿だった保育士さんは、みなさん、エプロン姿である。ずいぶん印象が変わるのね。そういう私も今日はスッピンである。ベビーキャリアから息子を下ろし、彼の背中にチューリップの形をした名札をつける。だいじょうぶ、むかえにくるからね、と、心の中で言うと、さりげなくそっと息子から離れ、園を出た。背中から、息子のすさまじい泣き声が聞こえる。私は泣き笑いのような表情だっただろう。妙に興奮しているような胸の内で、いつもより早足だったに違いない。一度も振り返らずに、保育園から歩いて5分ほどの距離にあるデニーズに向かった。

朝のデニーズ。ラフな服装のおばさんおじさんがたくさん。朝食メニューもいろいろ。トーストなのか石窯ブールなのかホットケーキなのか、卵は一つか二つか、目玉焼きかスクランブルか、ソーセージがつくのかつかないのか、ヨーグルトはつけるかつけないか、飲み物はコーヒーか紅茶かジュースか、コーヒーはモカストレートかアメリカンか、食前か食後か、などなど、選択したければならないことが山のよう。他のテーブルのオーダーを聞いているだけでも、面白い。でも、その中にひとりで座っていたら、砂浜で、波が引いていく時に、足下の砂ごと持って行かれるような心持ちになった。引いていく波、また起きて、寄せる波。それをただ眺めている私。

ぎこちなく注文したスクランブルエッグとブール、コーヒーは、あっという間に運ばれてきた。私のコーヒーは、どうやら、おかわりできないコーヒーのようである。次に来た時は「ブレンド」と言わなくちゃ。スクランブルエッグにケチャップでハートを書こうとしたけれど、失敗。ケチャップをフォークで広げて、ひとくち。持参した『マチネの終わりに』1ヶ月分を読み始めた。

はじめはゆっくりと、徐々に読むスピードが上がる。次はどうなるのか知りたい気持ちが、自然とそうさせるのである。
主人公は38才のクラシック・ギタリスト。ちなみに、私と同じ年である。私が、物語にずいぶん馴染んできた頃、第16話で、彼は次のように発言する。

「(略)最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか?ベートーヴェンの日記に『夕べにすべてを見とどけること。』って謎めいた一文があるんです。(中略)…あれは、そういうことなんじゃないかと思うんです。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

はっとした。最近ぼんやり考えていた、過去と現在、未来について。それが言葉になって、そこに書かれているようだった。少し前に、過去がぬおーっと襲ってくるような出来事があって、いろいろ思い出していたら、私の記憶の曖昧さに驚いた。いや、記憶が曖昧というのとも違う、ある出来事の捉え方が変わっただけではない、もっと違う何か… 出来事は一定のはずなのに、過去が変わっていっているような。

じっと奥歯で噛むようにしたり、あえてさらりと流すようにしたりして、一気に読んだ。読み終えると、ちょうど息子のお迎えの時間であった。久々の、小説を読む快感。物語に自分を引きつけるのか、物語の中に自分を見出すのか、とにかく私は夢中で読んだ。新聞の連載小説を読む。実は初めてなのである。もちろん、単行本になってから読んだことはあるけれども。明日から、この先、どうなるのかな。とりあえず、また毎日、切り抜いていこう。

お迎えに行くと、またもや一番乗り。園舎の外にまで、赤ちゃんの泣き声が聞こえていた。案の定、大泣きしている息子。仰向けになって、おむつを替えてもらっていた。「泣き止んだ時もあったんですけど」と、保育士さん。一人おんぶして、一人を抱っこしている。泣いているのは、息子ともう一人だけ。他の赤ちゃん、すごいぞ。泣きはらした紅いまぶたとほっぺの息子。私を見ると泣き止み、抱っこすると、そっと目を閉じた。

さっき、落ち着いた息子と散歩がてら、近所の本屋へ行き、ハードカバーの小説を2冊買った。小説が、もっと読みたくなってしまったのである。伊坂幸太郎さんと阿部和重さんの合作小説『キャプテンサンダーボルト』と、中村文則さんの『教団X』。前者は、新聞で知ってから気になっていた小説、後者は店頭で見かけて。

帰り道、桜吹雪が、私たち親子に降り注いだ。私はひゃーと声を上げながら、息子は黙って私の服をぎゅっと握って、風に舞う花びらを見た。「未来は常に過去を変える」。その一節がふと浮かぶ。いつかきっと、この桜吹雪を、今とは違う気持ちで思い出すことがあるのだ。

よほど疲れたのか、息子はすぐに眠ってしまう。散歩の途中から寝て、今もまだ起きない。そろそろ起こさなきゃ。
明日も息子を待つ間、朝のデニーズで、私は小説を読んでいます。

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