2015年3月1日日曜日

奇跡

朝、ひとりお座りができなかった息子が、昼過ぎには完璧にできるようになっていた。朝にはぐらついていて、夫と「もうすぐできるねえ」なんて言っていたのだが、まさかそれが数時間後のことだとは思いもしなかった。何の支えもなく、ひとりで座る息子。更には、座ったまま、新聞を両手で持って小さくちぎってみたり、ガラガラを振ってみたり、ぬいぐるみを抱えたり。ややぐらついても、どうにかバランスをとり、集中して遊んでいる。すごい。肋骨の内側がジワジワっと熱くなるような感動。息子は、自分の成長に感動するなんてことも勿論なく、戸惑う様子もなく、畳に座っている。私は眼球の裏側が空洞になったような感じで、目の前の息子を、ただじっと見ているだけだった。こんなふうに一気に、できなかったことができるようになるなんて。これまでもそういうことはあった。でも、今日のお座りは、どーんと胸にきた。

座る息子を見ながら思い出していたのは、なぜだか、新約聖書に書かれている、ガリラヤ湖上を歩くキリストのくだりだった。有名な、湖上を歩く奇跡、あれである。手元に聖書がないので、うろ覚えだけども…(その上、ここからは私の勝手な解釈です。)

キリストも、はじめのうちは、びしゃびしゃと湖に入ったかもしれない。それが、きっかけがあって、湖上を歩いてみたら、できてしまったんじゃないかしら。奇跡と言えば奇跡だけれど、本人は前からずっとできたような、そんな当たり前の気持ちでスーッと歩いたにすぎなかったんじゃなかったのかな。お座りできた、うちの赤ちゃんみたいに。(確信があって「見せた」「奇跡」に、人は心動かされるものだろうか?)
弟子たちはそれを見て、たしか「おそれた」とか書いてあったように思うけれど、目にした時は「あ、湖の上、歩いてる」と思ったくらい。でも、キリストが近づいてくるにつれ、その歩いてくる速度でジワジワっと胸の内が熱くなって、ゆっくり深く「おそれた」のではなかっただろうか。息子のお座りを見た、今日の私みたいに。
ところで、聖母マリアは、息子であるキリストの「奇跡」をどんなふうに思って見ていたのかな。息子がひとりでお座りしたのを初めて見た時は、やっぱり胸を熱くしただろうなあ。もしかしたら、その後の数々の「奇跡」よりも。

たしか(”たしか” が多くてすみません)、深沢七郎の『言わなければよかったのに日記』の中で、正宗白鳥が履物を履かずにスーッと歩いて来た時に、キリストもこんなふうにガリラヤ湖の上を歩いたんじゃないか、って書かれていなかったかな。(残念ながら、私の持っていた『言わなければよかったのに日記』は、10年くらい前に友人とケンカした時、仲直りにあげてしまって、手元にない。だから、これもうろ覚えである。)誰かを、何かを信じたいと思っている人の前でしか「奇跡」は起こらないのだな。信じていない人にとっては、見逃してしまうような些細な出来事かもしれない。でも、当人にとっては「奇跡」となる。深沢七郎も正宗白鳥を信じていただろう。

そうか、奇跡って、日常で起きるんだ。私はクリスチャンではないけれど、今日初めて、キリストの奇跡を目撃した時の人々の心持ちが分かるような気になった。そして、信じたい/信じる気持ちの発生について思いめぐらした。うまく言葉で表せないけれども。

お座りして遊んでいた息子が、倒れた時のためにと背後に置かれたクッションに、オトト、と倒れる。ふんわりとクッションに頭を埋もれさせて、息子は、にんまり笑った。私はハッと我にかえる。君のお座りを契機に、長い長いマインドトラベルをしてしまったみたい。奇跡を見せてくれて、ありがとう。お母さんは、君を、信じる。

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