2014年12月3日水曜日

アンドレス

アルゼンチン人の友人が帰郷することになった。アルゼンチンの大学で教職を得たのだという。息子を連れ、電車を乗り継ぎ、彼が働く文化サロンまで会いに行った。電車から見る景色の流れは息子には速すぎて、以前は眠ってしまったものだったが、今回はしっかり目を開け、首を回してあれこれ眺めていた。いいお天気でよかった。

アンドレスとは、アルゼンチンのギタリストのウエルカムパーティーで出会った。当時、彼は芸大で映画音楽の研究をしていた。誠実そうな瞳とシャイな微笑み。まさか、初対面のアルゼンチン人と武満徹の話ができるとは。それはとても嬉しい驚きだった。さらに彼は私と誕生日が一緒なのである。そんなことも手伝って、私たちは仲良くなったのだった。

彼はいきなり現れた子連れの私に驚き、こちらが恐縮してしまうほど、とても喜んでくれた。そこへキューバ人のカルロスが、個人レッスンのためギターを背負ってやって来た。胸板が厚く、白髪混じり、いかにもキューバのミュージシャンといった風格。私たちは初対面だったが、カルロスは「絶対にどこかで会ったことがある」と言い張った。息子のために優しい声で歌を歌い、クリスマスの飾りを揺らしながら「コニート、ケパソ」(と聞こえた)と語りかけるカルロス。「コニートとは小さいって意味」とアンドレス。そして彼らはスペイン語で親しげに会話をしながら、息子を交互に抱っこしてくれた。大泣きする息子に目を細める二人を写真に撮った。カルロスの生徒さんが飲み過ぎで(二人の予想)、レッスンに遅れるという電話が入り、私たちは近くのイタリアンでランチをとることにした。
料理が運ばれてくると、息子は泣き始めた。私はここでもおっぱいを使った。コートを羽織って、息子を中に入れた。隣の席のサラリーマン3人組がぎょっとするのが分かった。「一緒に食事、したいんだね」と私の友人たちは楽しげに言う。「女のひとは強い。そして、とてもビューティフル」。店内は暑く、コートの中に入れられたクマの着ぐるみを着た息子は汗だくだったが、満足そうに目をつむっている。時どき額の汗を拭き、「大人って勝手だねえ、ありがとごめんね」と謝りながら、私は存分にランチを楽しませてもらった。サルサとソンのリズムの取り方の違い、憧れのミュージシャンの話、子どもの話(カルロスにはお孫さんがいる)、それぞれの故郷の話、日本語、英語、スペイン語、ジェスチャーが入り混じる。ひさびさのライヴの会話。こういう時間が私はとても好きだ。

以前、アンドレスを誘ってある食事会に参加した。それは、彼にとってあまり居心地がいいものではなかった。「誘ってくれてありがとう」と言って、彼はビール一杯で帰って行った。アンドレスのシャイさが、日本人に誤解を与えたようだった。私は悔しくて、帰り道に泣いた。夫は「僕はちっとも悔しくないよ。今日のメンバーの中で彼の演奏を聴いているのは僕だけ。彼がすばらしいミュージシャンだっていうこと、僕は知っているから」とキッパリ言った。夫は彼の芸大の卒業発表を見に行っていた。

「これからもよろしくね」、そう言い合って、私たちは別れた。息子を抱っこしたままハグしたが、私たちに挟まれても息子は泣かなかった。「またね」。私は数歩歩いて振り返ったが、彼は振り返ることなくすっきりとした背姿で去って行った。いいお天気で、本当に良かった。


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